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2月4日(木) 「僕」 内憂外健
2月6日(土) 「俺」 徒然だし
2月13日@(土) 「私」 顔文字論
2月13日A(土) 「俺」 昨日のこと
2月15日(月) 「俺」 (文字)論
2月16日(火) 「僕」 余計なもの
2月18日(木) 「俺」 誕生日プレゼント
2月23日(火) 「僕」 純粋理性批判


2月4日(木) 「僕」
内憂外健


「二十世紀は自分のために何かをする時代だったけど、僕は二十一世紀は、人のために何かをして、人が喜んだことがうれしいという時代になると思う。人類が生き延びるには、そういうメンタリティーしか次はない。」(須磨久善さん、今日の朝日新聞夕刊より)

49歳の心臓外科医の言葉だ。少し心が落ち着いた。

ここ2〜3日はハッキリ言って鬱だ。僕の心には日本のような四季はなく、砂漠から熱帯雨林へと急変するから困ったものだ。

原因があるのかないのかも漠然としている。死への恐怖、死の束縛感、自分の人間性への疑問、他者(ひと)の人間性への不信、心にある様々な悲観が一度に目を覚ますといった感じだ。こうなると僕は一気に自虐的になる。

人間の心は複雑だとよく言うが、僕はそうは思わない。シンプルすぎるからこその混沌ではないかと思う。タンスではなくゴミ箱のようなものではないのだろうか。

僕は人からの圧力には強い。世の中に真理というものがいくつあるかは知らないが、真理でない限りは価値観であり、人に何を言われようと結局は「自分は自分」で片付けることができるからだ。

しかし、その「自分」が物言いをつけるもんだから心は大混乱に陥る。逃げ場がないから追い詰められる。やめて欲しいもんだ。

しかしやめて欲しい半面、それが大事なことだという自覚もある。「自分は自分」である限りは作用しない「人の振り見て我が振り直」す心が作用しだすからだ。己が振り見て我が振り直すのである。

僕はこうやって成長してきたような気がする。言わば心の成長痛みたいなものだろう。必要悪でもある。今日もそんな自分にお付き合いだ。

追伸:僕のこういう内面を知る者はほとんどいないだろう。人前では隠しているというわけではなく、人前ではこういう心が起きないからだ。人が周りにいないことを確認して、こいつはやってくる。ネットでなければ知れない僕の一面だ。これもネットの異常性と言えるのかもしれない。


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2月6日(土) 「俺」
徒然だし


昨日ビデオ屋で、エロビ2本と「イル・ポスティーノ(イタリア映画)」「無能の人(竹中直人初監督作品)」を借りた。「イル・ポスティーノ」は3回目、「無能の人」は2回目のレンタルで、見た回数はともにゼロ。どうも借りる癖はあるが見る癖はないらしい。

言っておくが別にこの2本はエロビのためのフェイクではない。全て、見たいから借りた。余談だが、昔友達が「もののけ姫」を借りる際にフェイクのためにエロビを借りたと言っていたが、その組み合わせだとフェイクではなく相乗効果が見込まれてしまうのでは?と思った。

長い映画は普通、前編後編に別れている。しかし昨日ビデオ屋にあったなんとかという邦画は前編と後編@後編Aに別れていた。どないやねん

今日は久々に英語を話した。敢えて「つたない」は付けない。相手はチャイニーズカナディアンで、一緒に焼肉を食いに行ったが、奴は26歳にして童貞だった。だからなんだと言われても困るが、イイ奴だった。どないやねん

こうして今日も一日が終わってもう日曜だ。久々に競馬をやろうかとも思うが、最近の馬は知らないのでやはり躊躇する。何故か最近の競馬は頭に残らない。最初に馬券を買ったレースはいまだに鮮明に覚えているのに。「黄色い帽子はミスターアダムス!」という解説。マックイーンが5歳の時の春の天皇賞だ。ああ、これは「理解者が少数の事柄は書かない」という俺の日記の禁止事項だった。ここらへんでやめておこう。

一昨日の日記を見ればわかる通り、最近は日記のみならず、生活全体にやる気が感じられない。なにもかもが面倒くさい。だけど食欲・睡眠欲・性欲は満たしているところを見ると、生きることまでは面倒くさいとは思っていないらしい。ラッキー


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2月13日@(土) 「私」
顔文字論


生まれて初めて今日の男汁を1週間も休んでしまいました。1週間休んだからって、今日の男汁が1週間分充実しているわけではありません。なんせダラダラ生きてましたから。しかも、これから書くことには笑いは皆無ですので、マジメな内容に興味ゼロな人は飛ばしてAを読んでください。

男汁の掲示板を見る限り、顔文字を使う人をあまり見かけません。禁じているわけでもないのに使う人が少ないのは、恐らく「おくのページ」の影響と、私自身が使わないことが挙げられるでしょう。

顔文字は、感覚的な繋がりを持たないネット世界だからこそ発達してきた、感情伝達手段です。

では、なぜ顔文字を嫌う傾向が出てきたのでしょう?それは、顔文字の持つ特異性からです。顔文字は一般社会で認知されていない表現形態であり、それがために「内輪的」なイメージを醸しているので、インターネットが急速に一般に普及した現状ではその「一般」により排除されようとしているのです。

つまり、インターネットの普及が現状より漸進的であれば、顔文字は常に多数派(ネット上の「一般」の地位)を確保でき、よって排除傾向が出ることも恐らくなかったでしょう。

ではなぜ「特異」が排除されるのでしょう?それは「異物の排除」が日本人の国民性だからです。単一民族で構成される日本においては価値観の相違が相対的に少なく価値観の根本的衝突がないために、異なる価値観への適応・対応が苦手であり、また国内にいるかぎり常に数的優位を保てるために、異物を受け入れなくとも排除することで混乱を回避することが出来るからです。

「日本では『私は外人である』と認識させられるのではない。『私は日本人ではない』と認識させられるのだ。」(マスターキートン(マンガかい!)より)

とここまでは一般論です。

私見では、12月3日の日記にも書きましたが、相手に通じればいいのではないかと思います。

つまり、「一般」が急速に入りこんだネット社会の現状においては、内輪や見る対象を限定している場合、またメールにおいて相手が顔文字を認識できる場合はつかってもいいが、不特定多数に対する意思表示としては使うな、もしくは顔文字に注釈をつけるなどして普及努力をしろ、ということです(結局ダメなんかい!という結論ですが)。後から来たくせに、などというおごりは捨てて、現状を直視してください。

したがって、不特定多数を対象とする男汁掲示板では注釈なしの顔文字は使わないで下さい。それは掲示板にアラビア語を書くのと同じです(書ければ、ですが)。


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2月13日A(土) 「俺」
昨日のこと


昨日は久々(3週間ぶり)に高校の友達と飲んだ。場所は新宿の職安通り沿いの焼肉屋。

俺は職安通りを区役所通りと勘違いしていて、道に迷った。区役所通りはザ・歌舞伎町とも言えるような、バーやランパブ(ランジェリーパブ)の立ち並ぶ通りで、呼び込みだらけだった。

道に迷った俺は仕方なく呼び込みの兄ちゃんに道を尋ねたが、浪人生のような格好(ベージュのダッフルコート)をして道を尋ねたために受験上京とでも思われたのだろう、あやうく「おっぱい生もみ、飲み放題5000円」に連れ込まれそうになった。

確かに「おっぱい生もみ」というキャッチフレーズには惹かれた。思わずキャッチされそうになった。しかし、揉み放題5000円なら納得もいくが、なんで飲み放題なんだ?ほんとに揉ませてくれるのか、という疑問が頭から離れない。

しかもその兄ちゃん、何を聞いても「おっぱい生もみ」しか言わないオツム弱すぎ!しかたなく自力で探すことにした。

やっとのことで焼肉「韓国館」に辿り着いた。そして言葉が溢れ出す。話した内容は色々あったが、かいつまんで話すと次のようになる。

「チェキッ娘」の「チェキッ」は何かということ。これは俺は知らなかったのだが、実は「Check it」なんだそうだ。ほうほう。

サンタクロースはなぜ赤と白かということ。これも俺は知らなかったが、5人中3人が知っていたから、実は結構みんな知っているのかもしれない。

これは日本のバレンタインデーにチョコを渡す習慣が製菓会社の販売戦略だったと同じで、実はコカ・コーラが販売戦略としてそんなにメジャーではなかったサンタクロースを使ったからなんだそうだ。ほうほう。

一昨日のダウンタウンDXの話。これは当然見た人もいるだろうが、面白かったので知らない人のために書く。最後の国民投票で「テレビ欄のフレーズで、思わず見たくなるようなフレーズは何ですか」という問題。1位「決定的瞬間」、2位「密着24時間」、3位「食い放題」、4位「自然紀行」といった感じだった(たぶん)。で、面白かったのは小数意見。見る前にちょっと考えて見て。もし今から書くのと同じこと思った人、あなたは素晴らしい。ちなみに50歳会社員の意見。

正解は、「巨泉の」

この答え、凄すぎ。なかなか言えないぞ、これは。ハウマッチとクイズダービーぐらいしかないし。ファンだこいつ、巨泉のファンだ。絶対そうだ。

友達の勤める会社が社運を賭けて新しいシュウマイを出したらしい(しゅうまいに社運を賭けるのもどうかと思うが)。その名も、「ジャッキー・チェンしゅうまい」。売れる!いや、絶対売れない!なんだこの安直なネーミングは?!面白すぎるぞ。ジャッキー・チェン世代(そんなんあるんか?)の俺は見つけたら思わず買ってしまうだろう。みんなも見つけたら買ってあげよう。


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2月15日(月) 「俺」
(文字)論


今日は(文字)について書く。今回は顔文字論のように理性的には書かないので別に納得しなくてもいいし、(文字)至上主義の人は不快に思うかもしれないし、反発もしたくなるだろうし、学校ないし、家庭もないし、いやじゃないし、カーテンもないし。

(文字)もやはり活字による感情(表情)伝達手段だ。顔文字との違いはその認識度(理解度)と認知度にある。(文字)は括弧内を日本語で表現するため、認識が容易だ。しかも、(笑)においては新聞や雑誌の対談でよく使われているため、認知度も高い。

俺は全ての(文字)が嫌なわけではない。俺の許せる(文字)は、本気(マジ)に書いているわけではないことを示す(笑)(=緩衝材としての(笑))。

チャットではタイプにあまり時間を掛けられないし、長い文章も書けない。したがって、いちいち本気で言っていないことを伝えるのにそれを説明していたのでは時間的にも文章的にもボツだ。この場合、(笑)はかなり有効だ。

また、掲示板においても文章は長くない方がいい。それなら、(笑)を用いれば楽にその文章の意味を伝えられる。

時間的なこと、文章の長短を省いて考えても、この場合は「表情の伝達」が必要な場合であり、かつ認識も出来るわけだから、使うのは別に構わない。

次!嫌いな場合。これは日常会話に置き換えて考えるとすぐわかるのだが、俺は自分のギャグで自分で笑う人が嫌いだ。あまりにも周りが寒そうな反応をしていて、その反応についつい笑うことはある。また、人が笑った後にその笑いにつられて笑うこともある。しかし、自らの発言に対して自らが率先して笑うというのが生理的に受けつけない。ドリフのおばさん笑いも嫌いだし、アメリカのシチュエーションコメディに出てくる笑いも嫌いだ。いづれの場合も製作者側が自ら笑うからだ。

だから、そういう意味で(文字)を用いている人が嫌いだ。心が狭いと思うか?別に結構。俺はやむを得ない場合以外に嫌いな人と話すほど心は広くない。

(爆)については、次に述べる使い方の場合はいいと思う。

昨日またイラクやられたんだって(爆)
北朝鮮も太平洋にぶっ放したらしいよ(爆)
実はロシアもまだ実験してんじゃないの?(核爆)

でも、文字を拡大するのも結局は(笑)と同じじゃないか!とも思ったりする(強張という場合もあるけど)。いや、やっぱり違うか。自分が笑ってるわけじゃないもんな、この場合。文字の大小は、日常会話に置きかえると声の強弱だ。


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2月16日(火) 「僕」
余計なもの


「余計なものなどないよね」(「ハイと言え」チャゲ&飛鳥)

日常なにげなく使っている言葉の中に「え、これってもしかして無意味?」と思わせる言葉がある。

いつも思うのが留守電に入っている「これ聞いたら電話して」というセリフ。if構文というのは「〜〜たら」が条件となり条件に合致した場合に「〜〜する」のである。つまりこの場合は「これを聞く」という条件に合致した場合に「電話する」という行動を取れ、ということなんだけど、端的に言えば、こんな条件は無意味だ。

ああ、なんとも説明しつらいけど、留守電聞いた時点でこの条件に合致してるし、留守電聞いてなきゃ条件も何もない。つまり用無し。「電話して」のみで可のはずだ。

言っちゃ悪いが」というセリフもどうかと思う。この間友達が「言っちゃ悪いけどお前頭かなりやばいよ(髪の毛のこと)」と言っていたが、悪いと思うならそんなダイレクトかつダイナミックに言うなよ、と思う。現実に言う時点で「悪い」とは思っていない。これも無意味だ。

どうでもいいけど」もかなり怪しい。「どうでもいいけど、としちゃん最近どうしてるんだろうね」という場合、実は結構本気で気になっていたりする。実際、としちゃんが最近どうしているのか、かなり気になる。「いいとも」以来見ていない。少年隊ですら「Spring Summer Autumn and Winter and You!(春夏秋冬とあなた!)」という素晴らしい歌まで出したというのに・・・。

話がずれたが、一番よく使われて、かつ無意味に感じられるのが「個人的」「私的」「俺的」という「主観ですよ」という意思を表す言葉。「この絵、どう思う?」「んー、俺的にはいいと思うよ。」じゃあお前、ゴッホ的に言えるのか?

というわけで、余計なものもある、と。


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2月18日(木) 「俺」
誕生日プレゼント


もう、朝の5時。かなり眠いので、日記はささっと書く予定。内容も薄いだろうけど、しょうがない。

今日バイト中に親から電話が来て、「寿司屋に行く」と言われた。家族で外食なんて高校以来だから、なぜだろうと考えた。気付くと今日は母の誕生日ではないか。

帰りに下北沢で途中下車して花を買い、梅ヶ丘の緑寿司へ。

花を渡すと、「わぁ、花なんてもらうの、生まれて初めてじゃないかしらぁ」と言って喜んでいた。大げさに喜んでくれるのは嬉しいものだが、俺が去年も花をあげたことは忘れているらしい…。しかも、帰りに寿司屋に花忘れるし

どうせ500円さ。


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2月23日(火) 「僕」
純粋理性批判


まず初めに、題名ほど崇高な内容ではないことを了承するように(しかもこの本を読んだ記憶もない)。また、今日もまたダラダラと暗〜い話を書くので、読まなくてもいいんじゃないかと思う。

今日、彼女に感情が感じられないことを指摘された。これは前から何度もあることだったけど、直らない。どうしよう。

話の流れは、まず彼女が将来(仕事面)での悩みを僕にした。不安だと言っていた。僕は脳の話をした(もちろん大した話を出来るわけもないが)。確か、これこれこうすれば自信がでるんじゃないか、というようなことを言った。建設的なアドバイスのはずだった。しかし、これがもうアウトだった。

彼女曰く、「話に感情が感じられない。コンピュータ(ぴゅう太でも可)と話しているようだ」と。う〜ん、言われてみると確かにその通り。

彼女としては、感情面での応援を期待していたのだ。「がんばれ」この一言が僕の下らない脳話の何倍も彼女の気持ちを和ませたのだ。が、僕にはそれが出来なかった。いや、出来ない。僕自身が言葉を直接的に受け入れることが出来ないために、逆に直接的に与えることも出来ないのだ。

僕は言葉を感情で捉えることが出来ない。誉められても、同情されても、言葉を受け入れる前に理性(理屈)で分解しようとしてしまう。つまり「嬉しい」「ありがたい」と思う前に「なぜそう言ったか?」を考えてしまうのだ。父が極度に感情的な人であるため、それが反面教師となって感情を必要以上に抑圧する人格になったのだと、自分では思っている。

言葉を直接的に受け取らないことは、これはこれで良い面もあるわけだけど、これしかできないとなると、大問題だ。人の立場になって考えるとしても、当然人を「自分」と置き換えるために、どうせ感情表現しても疑られるだろうと勝手に判断して、感情を排除したコメントしかできない。

これが不思議なことに、一人でいるとそうでもない。一人だと感情を素直に出せる。だから手紙やメール、HP上では素直な気持ちを出せる。映画も、一人の世界に入れるために、泣ける。もしかして人前では強がっているのか?もしそうなら、僕は可哀想な人間だ。弱さを共有できないってことは、自分が弱い時に助けられるのが自分しかいないってことだもんな。

う〜ん、これは早急に直さねばならん。言わばおおごとだ。現状が理性:感情=9:1ぐらいだとすると、7:3ぐらいにしなければ。と、いうわけで、今年の抱負(遅すぎ)は「七三わけ」にする。


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ほんとはポートボール部だったの?